ある閻魔様はいいました。
「これが今の貴方が積める善行よ」
なんだか隣の市の警察署で落し物を預かっているとの連絡を受けZ警察署に確認したら、ないと思っていたネカフェの会員証が届いていたそうです。家のプリンターはA4までしか対応していませんで、B4の印刷をする時にはわざわざそのネカフェまで出向いたわけですので、ないと困ります。面倒でも平日のうちに取りにいくしかなさそうです。
……しかし、届けてくれた人がいたんだ。これ使えば色々と面倒な悪戯もできただろうに……案外あったけーな、この世の中。
さて、人の善意に感謝した私ですが、世の中には、偽善という便利な言葉がございます。なぜ、人は善行をするのか?人には悪心がありますが、それと同時に善の心があるのもまた、確かなことです。世の中には、面倒でも人の世話をしたり、分からないことを教えてあげたり、宿代ネカフェナイトパック代を浮かすために一晩泊めてあげたり、物や金を恵んだりする人たちがいます。何らかの見返りを計算していたりする先行投資という考えもありますが、無償を前提にそれを行う人もいいます。人が何でそんなことをできるのか。
情けは人のためならず、とも言います。この格言の解釈は、情けは人を堕落させるから厳しくしろ、と勘違いされている方が多いようですが、原義は違い、人にかけた情けはいつか自分に帰ってくるから『可能な限り人に恩は売っておけ』ということです。むむむむむ、そう考えるとえらく殺伐としてきたぞ……
一般に、偽善というものはいいことではない、あまり褒められたことではない、と考えられているようです。例えば、子が親のお手伝いをしてその度にお小遣いをもらっていたとしましょう。それは、裏を返せば、お小遣いをもらわないと親の手伝いもしないのか?という話になってきます。よく、父の日母の日にお手伝い券を発行して渡す子供もいるでしょうが、じゃあ、券がないと親の手伝いもしないのか、と切り返せます。
善行とは何か。まぁ、その辺は私が語るよりも高名な宗教家や哲学者の先生方が語るべきことでしょうが、強いて言えば欲を出さない、報酬を求めないことと考えてもいいでしょう。でもそんなことできるのか?それを実践する人がいたとして、その人に手伝ってもらった人間は、その人の善意の上に胡坐をかいていいのだろうか。
私はこう考えます。その善行をなした人も、しっかりと報酬を受け取っています。前項を受けた人が喜ぶ、笑顔になる、あるいは、「ありがとう」の一言をくれる。これだけで、「ああ満足だ」とか「ああ良かった」とか「俺いいことやった、多分今の俺かっこいい」と思えることです。そう考えると、善だ偽善だって考えること自体意味がなくなってくるのではないでしょうか?偽善だって善なんです。ほどこされた善意への笑顔は最大の報酬になる。だから、人は何かいいことをしてもらったら、必ずお礼を言わなければならないのです。